華道真相御流は室町時代に薬師寺に建立した華道の流儀の一座です。
元来仏教では、御堂、須弥壇荘厳のために説かれた「蘇悉地迦羅経」によつてみほとけの功徳成就を願い、奈良時代には、寺院の中に「華務寮」「香務寮」「供物寮」を設け、みほとけへの供物、供養を日々勤めておりました。
平安時代には三寮は各々専門化していき、「華務台」「香務台」は公家衆等によって門跡寺院に移設したり、寺内に在って在俗衆が専修する傾向にありました。
鎌倉時代には、「座」の勃興に伴って、華道は「立花」を中心にして流儀風と称する「山海乾山」を基本として、「梅杖」を基態とした、杖(ボク)を華瓶に立て、根締めに草花を添える「二点活け」が、古文書等の資料によって考定されています。
室町時代になり、足利義政によって対明貿易がさかんとなり、「香務職」は有官職に限られて、完全に職務化されます。これは御家流鼻祖三條西賞隆によつて香道となりました。
足利義政の文化治世には香道、華道、茶道、歌道(連歌など)、謡曲が奨励されました。世阿弥、観阿弥、相阿弥(鑑岳相観とも号した)らは、足利義政の同朋衆として、各々の遊戯(ゆげ)の道を武士の道に相対して盛況を呈しました。相阿弥は『御鋳記』『君台観左右帳記』を著述し、華・香・茶に精通していました。
奈良の寺院には古流儀の「活花」が伝承されてきました。室町時代に入つて、相阿弥を流祖とした「真相御流」を一座建立し、薬師寺において、寺内の堂衆方の塔頭にて時代を通して伝承に勤めてきました。
明治時代には西川一草亭が「真相御流」に注目し、一草亭の弟子であつた名古屋の佐分雄二(さぶりゆうじ)氏に「瓶花図」を説示しました。また、氏は、昭和二十八年に薬師寺住職橋本凝胤師に提案して「真相御流」の再興に尽力しました。
その後佐分氏の最後の直弟子である島津芳子により何十年にもわたって薬師寺を中心に流派普及に努めました。西大寺や名古屋・各務原の薬師寺別院にも教室がありました。現在島津芳子の弟子が薬師寺にて月一回教室を開いております。